頭のいい人には頭の悪い人の気持ちがわからないのではないか
たとえば本をいっぱい書いているようなエライ評論家の先生のような人が言うことは、なるほど、「正しい」わけですが、そんなふうにいくら正しいことを言い続けても、頭の悪い人にはメッセージが届かない。
「自分の頭で判断するようにすべきである」などと言っても、頭の悪い人はそもそもその文章を読まない。
結局、世の中には頭のいい人と頭の悪い人がいて、
頭のいい人には頭のいいメッセージが伝わり、頭の悪い人には頭の悪いメッセージしか伝わらない。
「正しい」ことを言い続けても、こうした根本的な「世界の形」は変わらない。
「言論の力」は弁論大会が正しいルールで開催される場合においてのみ「力」を発揮する。
そして、そんな人工的で理想的な「リング」はこの世のごく一部にしか存在しない。
この世の大部分は「正しくない」「リングの外」のバーリトゥードです。
そういう根本的な「世界の形」そのものが変化しない限り、
いくら正しいことを言い続けても同じことの繰り返しにしかならない。
時の流れとともに、いつかは何かが変化することがあるでしょう。
それは果たして「正しいことを言い続けたから」でしょうか?
そこに因果関係は本当にあるのでしょうか?
人間が地球環境を破壊しているというのは嘘(錯覚)だという話をどこかで聞いたことがあります。
なるほど、地球レベルの環境の変化が「人間の活動程度のこと」で影響を受けるものなのかどうか?
すべては起こるべくして起こる。人間の意志は果たしてどこまで介入できるものなのか?
しかし、それでも私たちには「意志」がある。
これは一体どうしたことか?
どこかに何か「秘密」があるのではないか?
「世界の形」を規程している「秘密」が、どこかにあるのではないか?
「正しい話」を聞いても、もはやエキサイティングではない。なぜなら希望はそこにはないからです。
希望があるとすれば、その在処は、もっと何か、あらゆることの、「それ以前」の領域に違いありません。
「正しくは○○であるべき」という言葉とは無関係に、現実は「○○」とはなっていない。
では、なぜ、そうなのか? なぜ、そうなってしまうのか?
この世はなぜこのようなのか?(←ダジャレ)